図 書 室57
ACIMで行こう                                             牧村 多緒 著
 
この本はタイトルで判る様に奇跡の講座についての本である。

日本でこの様な本が出版されるのは大変喜ばしことである。 よく調べてみると案の定と言うべきか、やはり自費出版での本であっ

た。 よくぞ出版したと賞賛に値する。

精神世界系の中でとても有名なACIMである。しかしこのACIMに興味を持ちトライした人は恐らく、日本の人口一億二千万人の中

で一度はテキストを読んだことのあると言う人が数千人。 その中で実際にワークもやってみた人が数百人。で実際に継続的に実践

し続けている人は数十人の単位であろうと私は思う。この数字でも判る様にACIMはテキストとワークに沿って実践し続けると言う一

見簡単そうであるが、実のところ真剣に行うと大変厳しいものである。

この事は私たちはエゴに翻弄された深い迷妄の世界に浸かりすぎている証拠であるのと同時に、ACIMを必要とするまでに機が熟

していないとも言える。

しかし、ACIMの中でも言われているが例外なしに誰もが必ず何時かは履修しなければならない事である。

ACIMの中で説かれている非二元論の教えは、前回にこの図書室でも説明した通り大乗仏教と、とても親和性が高くもっと多くの

日本人に知られるべきものであろと思う。

では前置きはこのぐらいにして書かれている内容についての感想に入りたいと思う。

そこそこ幸せな主婦で子育てを通じスピリチュアルな世界に興味を持ちACIMを知った・・・との序文から始まる。

文脈から見てどこにでも居る様な、一見平凡な主婦である著者(実のところ平凡との定義もあやふやであるが決してこの著者は平凡

では無い)が自分の身の上に起こる出来事を、ACIMの赦しを何度もつまずきながらも実践し続けていくプロセスが読者からみて

より身近な共感を生む。 更によろけながらもACIMの真髄から大きく外れる事もなく、大いなる力に導かれて行く様子は勇気を与え

てくれるのである。

この文中に出てくるVさんは、彼女にとってまさに聖霊の使者の一人でありこの著者との時空を超えた(これも永遠の今と言う中では

意味は無いがあえて比喩的な文脈として)繋がりを感じる。

読み進めて行くと私が特に気に入ったVさんの言葉がある。『ここにソフトクリームがあります。99%アイスですが1%う○こで出き

てます。 あなたは食べられますか?』 
すばらしい名言である。ほんの少しでも不純物が混ざっては意味をなさないという事。

つまり完全な愛とは1%でもエゴが混ざると意味が無くなってしまうという事。 

ここにエゴで固められた私の意識を少しずつ少しずつ解除し、最後は一点の穢れのない状態にもっていかなければならない厳しい

現実がある。  このように書くと絶望的になってしまう。 

しかし真実は完全な愛そのもである創造主の唯一の被造物である私の本質は、最初から一点の穢れもないのである。

私がどっぷり浸かっている分離という夢の中で、私が誤創造したから本当の創造主がきっと怒っているだろな~と勝手に空想し、罪

に穢れてしまった架空の私(エゴ)。 恐れの投影という自己バッシングを展開し、時間という錯覚を作って生き延びているのである。

真なる創造主は全く気に留めも感知すらもしていないというのに・・・・。

さてその夢の中で目覚めた私の一部、すなわち偉大で強力な助人である聖霊が、罪と言うエゴの間違を永遠とも思えるその解除作

業を時空を超えて訂正してくださり、私はただ知覚し反応した思いを包み隠さず聖霊に差し出すだけで良いのである。

この行為が赦しである。 ここで重要なのが自分が投影し、知覚している対象について自分には判断する能力がないと認めること。

だが、これができないんだって! 一筋縄では行きません。   本当に参りましたと降参(聖霊に全宅)できるかがカギとなる。 

話が横道に逸れてしまったので元にもどすと。

この著者にとってあらゆる意味に於いて機が熟したのであろうと思う。 本の中に書かれている著者自身に起こる大変なエピソード

に対し聖霊の力を借り上手くこなしている。 このことは自身に起こることで解決が100%無理というのは無いという法則が正しく機能

している証拠でもある。

ある意味このシナリオも自己が決めて生まれて来たので当然といえば当然であるが・・こう表現してしまうと味も素っ気もないが・・。

ここで感想文のコメントとして重要な点を紹介しておきたい。

この本で語られている「愛」と「無条件の愛」である。 本文から抜粋しよう。 

『私たちは自分たちの愛を神の愛と同じものと定義して、その響きの陶酔してはならない。困った相手を助けずにはおれないこの良

心は、日本語では本来「情」と呼ぶべきものなのだ。 ~ 中略 ~ 私たちの分離したエゴの愛と、神のものである無条件の愛との

差異を明確にしないと、無条件の愛という形而上の概念が形而下に引きずりおろされ、二元性の属性をあたえられてしまう。私たち

が目指すべきものの質が変化してしまうのだ。』


全く指摘通リでこれはとても重要である。 更に補足するなら『無条件の愛』は私たちのエゴがらみの理解力では遥かに到達し得な

いと自覚する必要がある。

私たちがよく起こしがちな間違いである愛と善意の混同、更に私たちがこの世で行う善意の中には100%の善意とういものは無い

例え99.9%善意であっても0.1%のエゴを排除する事は出来ない。

ただ、これが悪いと言っているのではなく、このエゴの投影の世界にいる限り肉体を持つもたないに限らず、完全に目覚めた本物

の聖者いわゆる聖霊以外は不可能という事なのである。

浄土真宗開祖で高僧中の高僧、親鸞上人が晩年に弟子に向かって『割ってみせたや親鸞のこころ』と人間のエゴの深さを見つめ極

めた言葉が響く。 

私は人に善意や情を掛けるのは悪いとは言わない、しかし救いたいとの思いがあったとしても、自己が目覚ていない状態で本当の

意味で人を救うことなど出来ないと認識しなくてはならない。 

何よりも真なる自己を見出すのが先決である。 その為に赦しを実践し聖霊の力を借り不要なエゴを削ぎ落として行かねばならない

やがて・・・・周りを見渡すと私しか存在しない事に、そして本当は最初から全てが救われていたと気づく・・・。

無条件の愛より私に遣わされたものがACIMなのである。

最後にこの『ACIMで行こう』はスピリチュアルに多少でも興味がある方は読んでもらいたい書であり、一般の読者にACIMを近づけ

た功績は大きなものがあると思う。