”それ”は在る ヘルメス・J・シャンブ 著
久しぶりの図書室更新である。
最近は本を読む量も随分減ってきている。 何故なら、余り面白いと思う本に出会わないのと自分の嗜好が偏っているせいもある
と思うが。
さてこの本の紹介であるが、まず帯に書かれた文章から紹介しようと思う。
『これはまったくの上級者向けだ。 だがはじめて悟りの道を歩き出した者でも、この事実を知った瞬間上級者になることができる。
卒業する者よ、さあ、この手を取りなさい』
『閃光は放つ、霊感に満ちた、<在る>の真実を知るための書』
・・・・・・この見出しはいったい・・・・何と尊大で大げさな・・・・・胡散臭い・・・・・・。
これが、この本を手にした最初の第一印象である。
では何故この本を入手したのか?それはよく読んでいるお気に入りブログの管理人がこの本を紹介しており、その人と自分とほぼ同
じ考え方なので読んでみる気になった次第である。
最初に感想の結論から言うと、今までこの図書室で紹介したラマナ・マハシリ、プンジャジ、ニサルガダッタ・マハラジ、コース・イン
・ミラクル(これは人名でないが)・ラメッシュ等の覚者の教えの言葉と同じでそれをより分りやすく語ったものである。
この本の根底には上記の覚者に共通する意識が流れている。
余計な解説は不必要なのでいくつか抜粋するので感じ取ってほしい。
『繰り返すが、人生とはすなわち<私>とは何か、を知る作業である。それ以外に 無い。 人生とは全てが浄化である。
浄化とは、自分の中に何か罪や穢れがあり、それをきれいにすることではない。
例外なく、あらゆる存在に、罪や穢れと言うものは一切存在しない。
全ての存在は皆、純粋無垢な存在なのである。
では、何が浄化なのか。その意味はどのようなものなのか。
本当の自分ではないものを手放すことが浄化なのである。自分が純粋無垢で栄光に満ちた存在そのものであることを忘れ、
未完であるこの世の何かと違った自己同一化していることが、この世の苦しみの根本原因である。』
的確、且つ明快な教えである。
『探求者は、悟れば、全ての答えが得られる、と勘違いしている。
事実と言えば、問題を作り出す質問自体が消滅するのだ。
その時、自らが自らの完全性と真実、善なるもの、美なるものを認識するのである。 』
『献身の道や無私の教えや、さまざまな道があるが、全ては同じことなのだ。
奉仕に身を捧げるとしても、私がしている、という<私>が存在しているなら、それは自我(エゴ)の餌にしかならない。
(そうだ、無私の奉仕こそ、素晴らしい教えだ。よし私はそれをやろう)そして言うのである、
(私は奉仕をした、無心に働いた、きっと良い見返りがあるに違いない)と。それが無私かね? 』
だれもが陥る、これだけの事をしたのだから何かが得られるとの罠である。 真なる意味で本当は最初から何も得る必要はない。
『誰かが何かをして、仕方ないから赦すのでない。
自分は彼より高貴な存在だから、赦してあげる、のではない。
<赦し>とは、我慢することではない。
自己犠牲ではない。真の<赦し>に犠牲は無い。
真の<赦し>とは犠牲どころか、自分は自由そのものであり、完全そのもであると歓喜することである。
我慢する理由も存在しないところ、我慢される者も我慢する者も存在しないところ、
いかなる観念も概念も存在しないところ、それが<赦し>である。
それが解放である。』
これが解ったなら本当の自由を手にする事が出来る。
『誰も、あなたを救うことは出来ない。もし誰かが、あなたを救うことが可能なら、例えばイエスが全ての人を救うことが可能なら、
もうとっくに人類は救われているだろう。
しかし事実と言えば、あなたを救うのは、あなたしかいない。
何故なら、主役はあなただからだ。あなたしか存在していない。あなたが救世主だ。イエスはあなたの世界の登場人物にすぎない
どうしてイエスがあなたが賞賛されるはずの、その偉大なる歓喜の瞬間を奪うだろう。それは脇役が主演男優(女優)賞を受賞してし
まうようなものだ。もう一度言う。あなたが救世主だ。
あなたを救うのはあなたしかいない。
あなたの世界を救えるのはあなたしかいないのだ。
そして、あなたはこの体験をするためにここに存在している。
だから(あなたを幸せにしてあげる)と言うどの様な人が現れても、まったく無視するがいい。
宗教など・・・・もちろん全てではないが、あなたを救うどころか、さらにあなたに深い強迫観念に染め上げるだけだろう。』
真に目覚めたとき最初から私は救われていたと気づく。 そしてこの世界という夢の創作者であったと。
『迷ったら、混乱したら、常にこの様に考えなさい。
<解決する唯一の方法は<私>という個人がいるかどうかだ。
対象が思考であれ行為であれ、なんであれ、価値判断、分別したら、私は見逃している>と。
つまり自我(エゴ)がそこにいるかどうか。同一化しない、と言うことは、個人が存在しない、ということに他ならない。
そして全一となる時にも、個人は存在しないのである。 聖心(心の声・ハートの声)とは、常に個人の声を超越した、全一そのもの
声なのだ。 このことを絶対に忘れてはならない!』
本当はとてもシンプルであるのに誰もが思考(分別・価値判断)の罠にはまり複雑にてしまっている。
そしてその思考といえば錯覚から生じた潜在的な罪責感を基に、過去のあまりにも限られた記憶の投影でしかないのに、それが全
てであるかのように知覚し価値判断を下している。
『・・・・ジョークだ、まったくのジョークだ、この世界はジョークなのだ。 笑いなさい。
思いっきり笑うがいい。 そして旅を楽しむのだ。』
幻想・夢・・・これがこの世界の真実
この著者名はペンネームで実際は日本人で、青森で農業を営んでおりニンニクを栽培しているらしい。