奇跡の講座入門 ケネス・ワプニック 著
この本はコース・イン・ミラクル(ACIM奇跡の講座)の副読本で、奇跡の講座を学ぶ上でのエッセンスを濃縮した本である。
ACIMはこの図書室でも何度か取り上げた事があるが、私にとってとても大切且つ重要な学びの一つとなっている。
ACIMに付いてよく誤解される事の一つとして、宗教書やスピュリチャル系の本と見られるが、私の観点から見てこの書は心理学
的な要素が色濃く、人生における様々な問題点の原因となる潜在意識の構造を見事に説明し、硬直した意識の解放を目的とし
たものと思っている。
その明確さの現われとして段階的な基本訓練を通して、いつしか自分でも気づかぬ内に意識の変革を経験している。
この書はキリスト教圏で作成されているのにも関わらず、内容は仏教的なエッセンスに溢れておりここからも優れた教えと言われ
るものは常に内容は似通ってくるのである。
改めてACIMの内容について自分なりに纏めてみようと思う。
ACIMは大いなる守護により、,迷妄に陥った私たちの心を、幸福の最も重要な条件となる平安な心を達成するプロセスを経験
させ、何物にも制限されることや脅かされることのない永遠不滅の存在そのものが、本当の私たち自身であることに気づかせよ
うとする具体的、且つ実践的な一つのガイド書である。
キーワードは罪責感(罪の意識)・自我(エゴ)・赦し・癒し・平安、このシンプルな幾つかの言葉に要約される。
ACIMでは首尾一貫して赦しなさいと教える。罪があるから赦すのではない罪が無いから赦すのだと。 それは何故か?
この事を理解するにはまず最初に私たち自身の意識の構造を理解しなければならない。 自分は何を恐れ、何に怒りを感じ、
何を攻撃したいのか。 最初の一歩は自身に起こる出来事に対し素直に自分の感情を見るのが手掛かりになる。
それが恐れの感情なのか?、愉快な感情なのか?、怒りの感情なのか?・・・etc そして感情とは何か?との問い掛けの段階へ
進む。ここに来て自分の感情と記憶の関連に気がつく・・・・それは自分自身が作り上げた記憶であり感情であるということに。
ここを冷静に見つめる事が出来る様になって、今度は自分が目にする事や、聞くことの信憑性に付いて考察する必要が出てく
る。そこから自分が解釈していること、すなわち目にし感じていることは真実なのかとの問い掛けへの段階に進む。
ここまで来て初めてACIMは、ずばりあなたの目にし感じることは真実では無いと断言する。それはあなた自身の潜在意識すな
わちエゴが投影した幻影でしかないと。
恐れのベースである罪の意識は、私たち自身が投影するその物の原因である、自己の投影であるその幻影をまた知覚し恐れや
罪の意識を再生産し潜在意識にしまい込みむ。そしてまた投影するというループに嵌まり込むのである。
そこでACIMは赦しというツールを使ってこの硬直した意識構造から抜け出す手法をとる。
ACIMのロジックは私たちが知覚する物事は、罪の意識からくる恐れであってしかもそれは幻影である。
究極的な平安の中では知覚は起きない、しかし私たちの分離意識の中では知覚が起きてしまう。この限られたエゴの意識を
逆手にとり、その前提で知覚は間違であって罪ではないとするのである。
訂正不能となる罪の意識は先ほどの説明にある通りにいつしか深く潜在意識にしまいこまれ、やがて新たに知覚する対象へと
置き換えられる。 しかし間違った知覚であれば訂正出来る。すなわち罪では無く訂正可能な間違いなのだから赦せるとい
う事になる。 そしてその間違自体も私たちが訂正するのではなく大いなる存在に訂正して頂くのである。
最終的には赦しが必要なくなるまで、私たちは常に赦すか、恐れ攻撃する、かの選択に迫られる。
そしてこの赦しのプロセスを通して徐々に心に平安が訪れ、最終的には創造主が創造した真なる自己の姿に目覚め始める。
ACIMは究極的に赦しそのものも幻影の一つであるが、意識変革の強力ツールでありすべての人が必ずいつかは履修するもの
である。真実として罪・自我(エゴ)・赦し・癒しなど存在しないとしながらも、この認識が確立するまでいくつものステップで導いて
いく。
上記のように意識構造が理解でき更に実践し続けても、罪の想念を長年人類がその歴史に匹敵する分積み重ねたもの(カルマ
と言われる物)を、そうやすやすと変えることは出来ないとの思いが現実である。そこで私たちを助けてくれる存在が必要であり
その存在なしには意識の変革は不可能と言って差し支えない。
大いなる慈悲により、私たち一人一人に常にサポート(霊的守護)してくれる存在がいる。 そしてその存在との意思疎通が何より
も重要になってくる。
私たちは自身の自我(エゴ)を理解し、その騒がしいエゴに振り回されなように努力が必要で心が静かになった時、明らかにその
存在が力を注いでくれていることに気づくことができ、意思の疎通が可能となるのである。
その存在は勿論私たちの自由意志を強制するような事はないが、その自由意志がエゴをベースとしたものであればまた同じル
ープに嵌まり込むことになる。 それでもその存在はどの様なことがあっても決して私たちを見捨てることは無い。
そして常に正しい選択を教えてくれる。
無条件の愛そのものであるこの信頼にたる存在。 これが私たちの救いであり確約されたものであると。
これが仏教で言うところの他力本願であり、 キリスト教の神の約束となる。 ”南無阿弥陀仏” ”アーメン”