図 書 室50
時間の終焉                              J・クリシュナムルティ & デヴィッド・ボーム 著
 
クリシュナムルティ と デヴィッドボームの対話本である。

今までクリシュナムルティの本は数冊読んでいるが彼の話は、はっきり言って難解である。しかしこの本は分かり易い部類に入ると

思う。 最初にこの本の冒頭の対話から紹介したい クリシュナムルティの『人間は進路を間違えたのだろうか?』との問いに対しデ

ヴィッド・ボームは『人間は5~6千年前、他人から略奪したり彼らを奴隷にしたり出来るようになり始め。その後はもっぱら搾取と

略奪に明け暮れてきた』。     この様な対話の始まりから二人の高度な会話が展開されていく。 

この会話の中心軸は人間の心・意識でありここに我々が認識する事象とさらにそれを超えた答えがあると導かれていく。 

自己の内面を深く突き詰めて行き人間の精神・意識が何故にここまで凋落の道を歩んで来たのか、そのロジックを会話の中から

導き出す二人の英知の深さに、その背後にある洞察を与えている大いなる力を感じる。

『経験、傷、執着といったあらゆるものの記憶です。さて、それらを終わらせることができるでしょうか?もちろん可能です。要点はこ

ういうことです。知覚それ自体が、それは何なのだろう。傷とは何なのだろう、心理的な傷とは何なのだろうと尋ねる時、まさにその

問いかけを通じて知覚が傷を終わらせることが出来るのです。傷についての知覚がそのまま終焉なのです、それを引きずらないこ

とです、なぜなら、引きずることが時間を持ち込むからです、傷を終わらせることがまさに時間を終わらせるのです。 (中略) 傷を

永らえさせるのが時間であることに気づきます』 この会話ではこの傷と自己が分離しているという錯覚がその傷を維持する原因で

あり、更に今の私は傷ついているが、いずれ傷が消えていくだろう。そうしてこう考えること自体が傷を維持していく事になると論じ

ている。  そして、何かになろうとしている時は、あなたは常に現在のあなたを継続させていく。 

ここから私見となる。ここで時間に付いて再度考察してみようと思う、時間とは私の想念そのものであるという事、過去・現在・未来

この定義は意識の上での事でしか無いのである。 私たちが何かを知覚する時、そこには過去の経験(記憶)がその対象を作り上

げ更にその自分で作った過去の投影から影響を受けその思いから今度は何かになろうとする時に未来を作り上げる。 ここに継

続と言う時間(錯覚)が生まれてくるのである。 

すなわち時間とは私たちが意識(思い)の中で作り上げた物なのである。 あなたの今の知覚は全て過去の経験や記憶に基づい

て作られたものであるという事、ではその記憶や経験がひどく偏ったものであったならどの様な事になるだろうか?。

逆に全てを見通し真に正しく公平な判断が出来る人間(肉体をもった現存する人)など存在しているだろうかと問う方が分かり易い

かもしれない。 答えは否である。

私の知覚は偏ったものであり、真実を見渡すには余りにも制限されたものであるのが人間なのである。

やがて時と言う錯覚の中で必然的にその原因は何なのかと問うことになる、ここまできて初めて私の知覚は分離・断片化と言う間

違いをマインド(心)が錯覚として作り上げたものでありそれを持続・継続化するツールとして時間が作り出されたという真実に気づ

かされるのである。

別な角度からもう一度見ると、私たちの根本的な最初の間違いすなわち分離意識がエゴを育てそのエゴに基づいた意識が恐れや

不足感を投影しそれを知覚するのである。結果としてその満たされない思いを何時までたっても満たされるはずも無いのに、この

届かぬ思いを継続する為に時間と言う錯覚を作り出すのである。    ”求めよされど与えられず” なのである。。

そしてその結果は・・・・永遠に手に入らぬ幻想を追って私が気づくまで輪廻(時間)の輪を回るのである。
 
  

クリシュナムルティとデビッドボームの導き出した答えとは。

『その断片化が、その(愛はわたしたち全員に共通のものであると言う事実を受け入れないことの)根本原因でしょうか? あらゆる

ものとの関係において、完全に安全であろう、確実であろうとする衝動、要求、切望、それが根本原因なのでしょうか? が 実は、

無であることにおいてのみ、完全な安全があるのです!。』

この言葉の深意は、私たちの本質は私たちが知覚するあらゆる事象など必要とせず全くもって安全で確実な存在であるという事で

ある。  どういうことであろうか?・・・これはこの文章をお読みの貴方に探求してほしい。

  この真実にほんの一端でも気づく事が出きたなら貴方は人生と言う幻想から抜け出す一歩を踏み出した事になると思う。