図 書 室51
覚醒の炎                                           デーヴィッド・ゴッドマン 著
 
何事もタイミングと言うものがあると思う、この本との出会いもその一つである。

多くの本を読んできたが価値がある本との出会いとは読者がその本の意味を深く理解し、更にしみじみと感じ入る事が出

来るかが一つの指針となる。そのな意味でもこの本との出会いは私にとって大きな出来事の一つと言える。

ラマナ・マハルシの弟子の一人であるシュリーH・W・L・プンジャの教えを書いた本である。 

余計な解説は必要ない。 多少長文となるが是非最後までお付き合い願いたい。

『苦しみは、はじめるには良い地点だ。なぜなら、それが誰もが自分は苦しんでいると言うことを信じているからだ。仏陀は

すべてが苦しみだと教えた。なぜなら、それが誰れもが信じていることだからだ。彼自身の探求は、彼の町の中の苦しみを見

ることからはじまった。彼は病人、老人、死人を見た。そして彼の一族が必死になって彼から隠そうとしていた苦しみに気づく

ようになったのだ。彼は全ては苦しみの中にあるという教えを形成した。そしてそれから苦しみを終焉させる道を示したのだ。

神話を信じているとき、あなたはその神話からはじめなければならない。そしてそれから立ち去るのだ。あなたの信じるこの

夢の世界は神話、幻想だ。あなたがそれを真実だと信じているため、私は貴方がその中で苦しんでいるという不平を受け入

れ、いかに苦しみを終わらせて自由になるかというアドバイスを与えるのだ。 だが、あなたがこのすべてを語っている間も、

私はあなたが実際に苦しんでいるということを受け入れることは一瞬さえなく、あなたがその中で生きていると主張する世界

が現実だと受け入れることもけっしてないのだ。あなたにとってはこの神話が真実だ。サンサーラ(世俗的生活)、世界創造、

神々。それらはあなたにとって現実だ。なぜなら、あなたは自分自身に押しつけた神話を通してしかそれらを見たことがない

からだ。』 
    何と的確且つ鋭い指摘であろうか!。 

『最初に起こる確信は「私は身体だ」と言う概念だ。それは単なる確信、一つの概念でしかない。誰も「私は気づきだ」と考え

る人はいない。誰もが「私は身体だ」と言う。すべてはこの概念からはじまる。あなたが「私」と言うとき。それはいつも気づき

ではなく、この身体を示している。あなたが、「私があれをした」「これは私の関係性だ」や「この人は私と関係している」と考え

るとき、あなたは自分が身体だと仮定したうえで考えている。あなたが自分自身や世界について抱いているすべての概念は

自分が身体だという思い込みを根底にしているのだ。ひとたびこの思いこみが確立され、何の疑いもなく受け入れられると

あなたはこの偽りの概念を基盤にして生きはじめる。 これが無知だ。 あなたが語る「特定の思い込み」の分析は、この無

知を土台として為されるのだ』
     一体何があって私たちはそう思い込むようになったのか。。。

『「私は行為者だ」いう概念は、あなたをせわしなく物事に夢中にさせる。あなたは常になにかをし、「私はこれをしている」と考

える。あるいは次に何をしようかと考えている。あなたはさまざまな活動を通して他の人たちを助けていると考えるかもしれな

い。だが「私は行為者だ」と言う概念を楽しんでいるかぎり、あなたは自分自身も他の誰をも助けてはいないのだ。もし自由に

なりたいなら、あなたの時間のわずかな部分を真我に注意を払うことに捧げなさい。それを正しく行うためには、「私は行為者

だ」と言う概念を棄て去らなければならないのだ。 あなたは他者のために働き、他者をハートの中に保ち、他者のついて考

え、他者との関係性を通して人生を生きている。わずかでいい、ほんのわずかな時間をあなた自身の真我に注意を払うこと

に捧げなさい。全人生で、たった5分間でいい、あなた自身の真我に完全な注意を捧げなさい。』


たった5分間の完全な注意・・・これが途方もなく難しい・・・。ここに到達するのに幾多の幻の人生をたどってきたのだろうか。

最後にプンジャジが本の中で朗読している中国禅の三祖である僧瓈鑑智禅師(そうさんかんち)の「信心銘」を味わって終わ

りたい。
本物と言える教えや師に出会える事は難しい、そしてプンジャジはそんな師の一人であるのは間違いないと思う。
しかし如何に真理に基づいた教えでもそれを受け取る人そのものの準備が整う必要がある。

                          ・・・・・・自然法爾・・・・・        
大いなる道は難しくない
選り好みをせず
愛することも憎むこともなければ
すべてははっきりと明らかになる

だがわずかでも分別をすれば
天と地は遥かに隔たる
真理を実現したければ
賛成や反対の見解を抱いてはならない

一つを嫌い一つを好むことは
心の病だ
物事の本質を理解しないとき
心の平和は徒に乱される

道は大いなる虚空のように完全で
欠けたところも、余分なところもない
ただ取捨選択するために
物事の本質を見極められないだけだ

外界に巻き込まれてはならない
空と言う概念にもとらわれてはならない
一なる境地に帰して、ただ静かにしていなさい
そうすれば誤った見解はひとりでに消え去る

心の活動を止めようと努力しても
その努力がさらなる活動をもたらす
対極の一方を選んでとどまるかぎり
一なるものを知ることはできない

一なるものを知らなければ
静動、正否ともにその自由な動きを失う
物事の現実性を否定すればその現実性を見失い
空の概念にしがみつけば空の原理を見失う

話せば話すほど、考えれば考えるほど
ますます真理から遠ざかるばかり
話すことも考えることもやめなさい
そうすれば知り得ないものはなにもない

根源に帰れば本質を会得する
だが現われを追いかければ源を見失ってしまう
一瞬にして悟れば
現われも空もともに超越される

空の世界に起こる変転変化を
無知ゆえに人は実在と呼ぶ
真理を追い求めてはいけない
ただ相対的な見方をやめなさい

二元的な部分にとらわれて
現われを追ってはならない
わずかでも是非を区別すれば
心の本質は失なわれてしまう

すべての二元性は一元から生じるが
その一元性にさえ執着してはならない
心が生じなければ
世界が背くことはない
何も背くことがなければ
すべてはあるがままだ

分別心が起こらなければ、心は存在をやめる
主体である心が消えれば、対象も消え去るように
想いの対象が消えれば、想う対象も消え去る

物事(対象)は主体(心)が存在するために対象となる
心(主体)は物事(対象)が在るためにそのように在る
その二つの相関関係を理解しなさい
その根底にある実在は一つの空なのだ

この空は相対を排斥せず
すべての存在を差別のまま包み込む
粗雑と精妙を区別せずにいなさい
そうすれば偏見に陥ることはない

大いなる道に生きることは
易しくも難しくもない
だが視野の狭いひとは恐れ疑い
急げば急ぐほど遅れてしまう

真理に執着すれば度を失い
悟りという概念にさえ囚われて道に迷う
すべてを放てば自然なり
来ることも去ることもなくなる

あるがままにまかせなさい
そうすれば悠々自適に生きていける
想いを働かせば。真理は隠され
想いを止めれば、暗く澱んでしまう


有念も無念も徒に精神を疲れさせるばかり
そのどちらを好んでも避けてもならない
一なるものを求めるなら
感覚や思考さえ嫌ってはならない

感覚や思考を完全に受け入れることは
真の悟りとおなじなのだ
賢者は目的を求めて努力しない
愚か者は目的を求めて己を縛る

法は一つであって多数ではない
区別は無知の愛着から生じる
心をもって真理を求めることは
最大の過ちだ

迷えば安心や不安が生じ
悟れば好きも嫌いもなくなる
すべての二元対立は
自己中心の分別から生じる

それらは夢まぼろし、空中の花
つかもうとするだけ愚かなこと
得も失も、是も非も
すべて一度に放り出してしまえ

もし心眼が眠らねば
すべての夢は自然に止む
心が分別をしなければ
存在は一なるものとしてあるがままに在る

この深遠な神秘を理解すれば
すべてのもつれは解きほどかれる
千差万別の存在が平等に見られれば
あるがままの自然の姿に帰りつく

この原因も関係性もない状態では
比較も比類もできない
動を静とみなし、静の中に動きを見なさい
すると動も静も消え去る

二元性が存在しなければ
一なるものも在りえない
この究極の境地には
どんな法も描写もあてはまらない

道と一つとなった平等な心に
自己中心的な計らいはない
疑いも恐れも消え
真理を信頼していきるのだ

束縛を一撃で断ち切り自由になれば
印象はとどまらず、記憶すべきこともない
すべては空、明らかにして自ずと輝き
心を用いることもない

想念、感情、知識で推し量れない
このあるがままの世界には
自己もなければ他己もない

この実在と調和の内に在るには
ただ「不二」と言うがよい
この「不二」の中ですべては等しく
すべては包み込まれる

世界の賢者たちは
この根源的真理を体得している
真理は時を超え
絶対の今の一念、そのままで永遠なのだ

ここも空、そこも空
だが無限の宇宙は常にあなたの目の前にある

極大と極小は異ならない
境界を忘れ去り、区別を消し去れば
存在も非存在も同じこと

すべては一つ
一つはすべてだ
このように悟るなら
不完全を思い煩うこともない

この真理を信頼して生きることが不二の道である
不二とは信頼と一体なのだから

道は言語に絶している
そこには昨日も明日も今日もないのだ。