図 書 室49
I AM THAT                            モーリスフリードマン  著

『私は在る』 偉大な覚者であるニサルガダッタ。マハラジが語り継いだ言葉である。

この覚者がこの世に残した最初で最後の本がこの本である。

『身体はあなたのマインドの中に現れ、マインドはあなたの意識の内容なのだ。あなたはあなたを変えることなしに永遠に変化し続ける

意識の流れの不動の観照者なのだ。 あなたの不変性があまりにも明白なため、それに気づかないだけだ・あなた自身をよく見てみ

なさい。そうすれば、それらすべての誤解や誤った観念は溶け去るだろう。魚が水の中に生き、水なしでは生きられないように、全宇

宙もあなたの中に在り、あなたなしでは在りえないのだ。』

 
『神はあなたのマインドの中の概念にすぎない。あなたは事実だ。あなたが知っていたたった一つ確かな事は、「ここに今、私は在る」と

いう事だ。「ここと今」を取り除きなさい。「私は在る」が確固として残る。世界は記憶の中に存在する。記憶は意識の中に現れる。

意識は気づきの中に存在し、気づきは存在の水面上の光の反射なのだ。』


ニサルガタッタ・マハラジは1897年インドに生まれ正式な教育を受けることなく青少年期を過ごし小さな雑貨屋を営んでごく平凡に暮ら

していた。しかしあるときグルに出会いそのグルの言葉を一切疑うことなくその教え、すなわち「私は在る」を誠実に従った結果わずか3

年で真我を実現し、偉大な覚者となったのである。

ここから私見となるが、私が仏教の世界で不動明王という仏を思うとき、一切の迷を断ち切る強い意志と智慧の象徴である炎が立ち昇

り全ての煩悩を焼き尽くすのを思い浮かぶ。 そしてまさにこの覚者とその不動明王が重なって見えてくるのである。

この本で展開され語られている言葉一つ一つが全くぶれること無く、そしてその真理の背景には純粋な愛と慈悲の心が流れ続けている

のである、そして言葉の限界を超えた所へと私を運んでくれる。 

話は多少は逸れるが、改めて「赦し」に付いてここで語っておきたい。

「赦し」・・・ 私たちが浮かべるこの言葉のイメージは? 

殆どの方はキリスト教的なイメージをまず最初に思い浮かべる事であろうと予想される。 しかしこの「赦し」という思いは宗教的な意味

合いを含める含めないにかかわらず、およそ意識の変革に最も強力なツールの一つである事はどうやら間違いない様である。

この事を少々説明したい。

まず初めにどの様な人間でも「幸せになる」これが誰しもが望む人生の目標である事は間違いないはずである。もし不幸になりたいと言

う人間がいたら 是非見たいものである。

しかし本当に幸せになった人は人類史上一体何人存在するのかと言うほど、本当の幸せを手にした人は少ないのではないだろうか? 

そんな事は無い!幸せな事は一杯あるし結構簡単に入手可能だと言われる方おられるなら是非私に証明してもらいたい。

私が見るに、我々は仏教的に言うなら四苦八苦の世界に生きているのであり生老病死・会憎離苦・・・etcの世界にいる。

一時の幸せと思える事は幻に過ぎない。

では、それほど手に入れるのが難しく届かぬものならどうして人は幸せを望むのか?という単純な疑問が湧いてくる。

ここは冷静に考えてみよう、もしそれほど入手が難しいとするならそれはそもそも我々の幸せの定義がおかしいのではないかと言う事

である。

前置きが長くなったが、我々が目にする又は手にするものはそれが幸せ又は不幸に繋がることであろうが、それは正に「霞」そのもので

あると言うこと、しかしそれに対し必死にしがみ付くか逃げている自己が存在しているのである。

ここで再度赦しに話が戻るが”赦しとは”その霞を霞と自覚した上で真実は何物・何者にも私の本質には影響を与える事は無かった

と言うことを思い出させてくれる、とてもとても強力な道具なのである。 

真の赦しとは、相手や物事の罪を認めた上で赦すと言う傲慢なものでは決して無く、エゴの目を超えた私が存在し、エゴの視点で見た

私の錯覚を私が赦すと言う意味なのであり、そこには自も他も存在しないと言うことである。ここに本当の幸せへのヒントがある。

そしてその結果として一切の不足も恐れも無い幸せの本質である不変の私が存在するという事に気づくと言う意味である。

更に、その全てをも超えたところ意識の究極点、即ちそれを観照する者そのものが私であると体現したのが。ニサルガタッタ・マハラジ

が語る 「私は在る」である。  そして更にそれをも超えた非二元そのもの ”タオ” ”空”  超言語・・・全ての対象を越えたもの。 

日々の生活の中で私たちは多くの物事に遭遇する、そこに赦しを実践し続けるなら苦しみや悲しみを感じた時、多くの救いの手が私に

気づかせようと力を注いでくれている事実を認識できるようになる。   そこには理解を超えた大きな計らいがある。