十牛図入門                                                 横山 紘一  著
 
さて十牛図とは? 十頭の牛の図? 正確には場面の違う状況で1頭しか絵には描かれていませんし後半には牛もいなくなってしまいま
 
す。。。。      この十牛図とは意識の成長段階を示したもので全ての人がいつか必ず通る道である。  
 
その道が楽そうではないのが気に掛かるが。。。。  そこには気づきのプロセスを見事に表現した先人の智恵が窺い知れる。
 
この著者は唯識学の第一人者でその視点から解説されたのもが本書である。  
 
十牛図を見てみる前に少し、唯識に付いて触れる (かなり以前にこの図書室で唯識に付いて稚拙な説明をした記憶があるが、、、)
 
唯識とは森羅万象全ての物、宇宙・世界は根本心である阿頼耶識が作り出したものであり、唯だ識のみが存在するという考である。
 
また阿頼耶識を一切種子識と呼び、その中にありとあらゆる存在を生じる種子(能力)が潜んでいると言うものである。
 
そして唯識思想では心内の影像を。心外の実境と考えるところに迷いと苦しみが生じる。
 
この心外による影像を基に表層意識の喜怒哀楽がこの阿頼耶識に存在する迷妄の種子を成長させ迷いの輪が出現するのである。
 
おお~。 何と! 同じような教えが・・・ コースインミラクルは この宇宙は人間の無意識が投影した世界であり、無意識に潜むエゴが

分離の世界を構築し迷いと苦しみの世界が展開されていく。 我々は夢を見ている状態であり我々が体験している世界の実態は無い。

そして更に夢の象徴が肉体でありここから苦しみが具現化され、更にエゴが無意識の深層部へと蓄積されて人生と言う無明の世界が投

影される。この輪から出る為にコースでは大いなる存在(聖霊)による助けを得て無意識への働きかけとして顕在意識下での「赦し」を通

し、徐々に無意識に潜む幻影の根本であるエゴを解除(深層にある罪責感・執着を手放す)していく。  
 
話が逸れたので戻すと、人がたどる目覚めのプロセスを自分(顕在意識下の自己)が牛(真の自己)を探し追い求め、ついに見つけ、更

にはその自己さえも超え絶対な「空」を体験し最後は菩薩と成る状態を表したものが十牛図である。
 
ここから私の見解となるがその前提として我々が肉体に囚われた意識であると見るならば、問題はこの気づきの入り口、要するにこの十
 
牛図ある牛(真の自己)を探そうとする思いにたどり着くまでに、気の遠くなるほどの苦悩・喜怒哀楽の人生を経験してやっと最初の一歩

を歩みだすのではないかと。
 
我々は信じがたいほどの時間を掛けて迷妄の世界を投影し続けて来たのであり、よって同じように時間と言う幻想を使って多くの時を掛

け解除せねばならないのではと言うことである。
 
この事実に対して なんとまあ~ 大変だ! と のんきに客観視してみるが人事では済まされない。 
 
無情なようであるが勿論この気づきまで達しない人々は更に多くもの繰り返しが待っている。
 
しかし何故にこの様な七面倒くさいプロセスを通過せねばいけないのか? と訝しげに問い掛けるも明快な答えは得られないが、よくよく

考えるとどれもこれも自分が選択したものである事実が徐々に解ってくる。  ここに来て まさに なんてこった!。
 
この段階になると今度は近道は無いかと色々な宗教やスピリチュアルな世界にはまって行く、しかしそこで見るものの大半が結局はエゴ

の助長でしかなかったと理解すようになるが、結果 ここでも更に多くの時間を要してしまうのである。
 
なんだかんだと言っても結局 急がば廻れ は真実であると。 (余計なことをせづ地道に十全に今に生きること)     
 
そして最後の開き直りは!
 
無明の私は無駄な遠回りが好きなのであり そろそろそれにも嫌気が差して気が付いてみると とんでもない所まで来てしまったと気づ

いても後の祭りと悟る   しかし救いがある!  それは時間が幻想であったと思い出す事である。 とこれが簡単な気づきのようである
 
が。。。。。    このへんでやめておこう。
10)入?垂手 にってんすいしゅ
4)得牛 とくぎゅう
5)牧牛 ぼくぎゅう
6)帰牛帰家 きぎゅうきか
7)亡牛存人 ぼうぎゅうぞんにん
8)人牛倶忘 じんぎゅうぐぼう
9)返本還元 へんぼんげんげん
図 書 室47
1)尋牛 じんぎゅう
3)見牛 けんぎゅう
2)見跡 けんせき