図 書 室42
歎異抄の深淵     シリーズ 師訓篇 & 異義篇                  武田 定光  著
 
この歎異抄の真意に付いて諸説が多くあり、それに伴い解説書となる本も数多く存在する。 これはこの歎異抄の意味が深く、そして如
 
何に多くの人々に影響を与えたとの事実を物語っている。 ここでは自分なりに歎異抄から最も深く感じ受け止めた所から入って行く。
 
多少長文になるが意訳から紹介する。
 
『私は、何が絶対的「善」であり、何が絶対的「悪」なのかを全く知らない。なぜならば如来(絶対基準)が「善」と考えるように、私が『善を
 
知っている』ということもできましょう。また如来が「悪」を知っておられるのであれば『悪を知っている』ということもできましょう。しかし煩

悩を欠けることなく具えている人間、さらにその人間の住む燃え盛る火事のような世界は、全てのことは、みな虚言であり、真実は無い

ただ南無阿弥陀仏だけが真実であるのだよ』 (これは歎異抄の直接的な文面ではない)
 
これが約800年前に親鸞が語った言葉である。 人の判断基準の危うさ、そしてその先にある絶対真理を見事に言い表した言葉であろ
 
う。 この歎異抄と言うものは正直恐ろしいと言わざる得ない、その深さたるや底なしといった気がする。
 
我々は全てに於いて判断する生き物である。しかし、その判断基準が如何にあやふやで、且つ不正確なものかを思い知らなければな

らないのである。
 
我々は生きていく上で、人、物全てに於いて判断は必要であると信じている、しかしそれが本当に正しい判断なのかとなると、とても私

は不安を覚えるのである。
 
ここで一般的な事例で判断基準に付いて考えてみる。 ある人物に出会う、その人物が知人であるなら、その人物がどの様な人かは

直ぐに判断される。 過去その人物と過ごした事により出来た自分なりの心像がそのまま投影される。
 
又、人の噂話やマスコミのイメージだけでよい人、悪い人とのイメージを勝手に作り判断する。あの人は、いやな人とか良い人とか悪人
 
だとか善人だとか勝て気ままに判断する。この場合、我々はその人の過去を見て作り上げたイメージを見ているか他人の作ったイメー

ジを見ているに過ぎないと言うことであり、本当の真実は全く見えていないのではないかと言う事である。
 
身近な例で証明するには貴方の目の前に居る、既に知っていると思っている人の事をどれ程に理解できているかを本気で考えると直

ぐに答えが出るはずである。 では、なぜその様に判断すると問題あるの?と質問が出るかもしれない。 
 
我々は全くと言っていいほど限られた視点でしか判断できない、と言うことは正しい判断なのか間違った判断なのか分からないという事

である。 ここに結果として間違った判断でその人を裁いていませんか?と言うことになる。これは恐ろしいことである。
 
もし正しい判断が出来ないのなら、私は『判断するな』と言う。
 
では殺人者や強盗は裁くなと言うのか!と攻められるかもしれない。ここにある種のレトリックが存在する。
 
この世界では我々が考えた規則、要するにその規則を違反した人々を罰する事による恐怖で秩序が維持できると思っている、しかし現
 
実には機能しているとは言い難く多くの犯罪が発生している。
 
何度も言うが我々は限られた視野の状態で生きているのであり、それすら気づかない様にカモフラージュされた巧みなエゴの世界に住

んでいる。 
 
ここまで来て殺人者や強盗、彼らの自身の判断基準は一体なんなのかを深く考える必要に迫られるのであり、その延長上には私がそ

して貴方が殺人者で強盗である事が見えてくるのである。 そこには底知れない罪の意識を我々全ての人々が潜在意識下に背負って

いるのである。
 
しかし今ここで究極的にはこの事は全て幻想ですよと言っても心の準備が整っていない人には意味が理解できないし絵空事としか受

け取れない。 では現実的に考えてどの様に人物や出来事に接するのが最も最善なのか?   答えは 『赦し』 が解決策である。
 
ただこれも何の事なのか解らない、その様な時には次の事を実践するだけで良いと思う。
 
基準は全て自分である、自分がしてほしいと思う事を相手にし、自分がしてほしくないと思う事を相手にしない、ただこれだけである。 
 
勿論、表層的で打算的な意味ではなく深く考えた上での思い又は行動である、そしてその結果は受ける側の問題となるので後は本人

又はその出来事に任せるしかない。 その後その事を心から手放したとき我々はとても自由な気持ちになれるのではないだろうか? 
 
『南無阿弥陀仏』この名号には阿弥陀仏しか存在しないと言う現世にたいする否定語でもある、我々は分離意識と自我により正しく判

断も裁きも出来る状態には無いその事に気づかず人はいとも容易く人を判断し裁いている、しかし人を裁くとは自己を裁く事であり決し

て一人の存在として生きていける物ではないのである。
 
約800年前、衆生の救いの道を求め続けた偉大なる哲人であり聖人がたどり着いたのがこの名号で、それは最後の救いであり、そして
 
何があっても既に我々は救われていると 親鸞聖人は語りかけてくる。     合掌