図 書 室26
物乞う仏陀                           石井光太 
 
久しぶりに真剣に読んでしまった本である。この本はアジアの深部でのドキュメントで著者が実際に自分で取材した物である。我々は

一般的に発展途上国に於ける貧困や戦争の犠牲者と言える弱き人々の事はマスコミの報道などである程度は知っていると思うが、こ

の本に書かれていることが真実と知ったならあまりに悲惨で不条理な世界が実際に存在している事に一応平和で安全な国に住んで

いる我々は考えさせられてしまうはずである。
 
では本文の一部分を紹介する・・・インドのムンバイと言う都市では子供を誘拐しその子供が幼いうちは乞食の女性にレンタルとして貸

し出し、幼い子供を抱えた物乞いとして働かせ、その子供がある程度大きくなると(5歳ぐらいで)今度は手足を切断し肢体不自由にし

物乞いをさせると言う信じがたい事を行っているマフィアが存在する。
 
そしてそれは一般に言われるストリートチルドレンと言われる子供たち等である。更に、この都市は売春の都とも言われ北インドやネ

パールからさらわれてきた女の子たちが送り込まれ、薄汚い売春宿でアラブの富豪たちに処女膜を破られる、泣いても叫んでも誰に

も届かない。エイズを発症して捨てられるまで耐え忍ばねばならないのである。この本ではこの様な数多くの衝撃的な事が書かれてい

る。我々が認識している人道と言うものからあまりにかけ離れた世界が現実に存在している事を教えてくれている。
 
今この瞬間にも上記に書かれている様な事が実際に世界の何処かで行われているのである。 (著者のHPを紹介する http://ww
 
w.Kotaism.com)著者も言っているが、勿論この様な世界を肯定は出来ない、しかしこの様な悲惨な中にいながらも人間の力強さにあ

る種の救いを感じるのである。 
 
ここからは私の私見となるが、これが今の我々が所属している人類の一面の姿である。短絡的な発想で考えるとその当事者である人

間のおぞましさから出た行為だと片付けてしまいがちであるが、実は非道と思われる行為そのものやその事が実際に行われている地

域や人々だけを非難しても意味が無ない。
 
我々だって生い立ちや環境がその様な状況であったなら同様な行為を行う可能性は否定出来ないのである。どういう事かと言うと我

々も含め全ての人間が持つ側面の一つであると認識する必要がある。勿論その様な環境下でも人間の善なる中で生き抜く霊格の高

い人は必ず存在するが・・・(この様な人を私は霊格が高く進化した人と表現する)。別な視点で考えるなら先進国と言われる国に住ん

でいる我々は直接的ではないが無関心と言うおぞましさを持っており、そのことはその行為を行っている人間と同罪と言えるのであ

り根本原因の一つである貧困と言う状況に関与し作り上げているグローバル社会の一員である我々も関連するからである。
 
別の本の紹介でコメントした記憶があるが、このアンバランスな世界の最大の要因は貧困と無教育でありその悪循環の中で貪欲が助

長され人間に本来そなわっているはずの内なる善の心をも飲み込んでしまうのである。究極の意味で我々が気が付かねばならない

のは被害者とか加害者との区別では無く、全ての人間が加害者であり且つ被害者なのだという事を認識すべきなのである。
 
では具体的にどうしたら改善や解決が出来るのか? 私に一体何が出来るのか? 知ったとしても今の私には何も出来ないし、解決

する糸口さえ見つけられないなら忘れてしまうしか方法は無いのでは?・・・・この様な心のつぶやきが聞こえて来るのである・・・。 人

間はある意味で大変便利に出来ている、現実に起こっているとの認識があっても目の前で起きていなければまったく無視し忘れると

言う能力がある。人によっては目の前で起こっていても無視出来る人もいるが。
 
私は少なくとも直接的な行動ができなくても現実にこの様な世界が存在しているとの認識をし、関心を持つこと、そしてその持続的関

心が何時しか多くの人々との集合意識の中で大きな力になってくれると思うのである。  確かに別な面から見ると個々の人間・また

は集団に起きる幸、不幸には深遠な意味がある。。。がしかしである。
 
ある戦争ジャーナリストがこんなコメントを残していたのを思い出したので紹介したい。
 
『全ての人々は真実を知らなければならない、そして全ての人々が全世界で起きる全ての悲惨な出来事に責任を取ろうとした時、 貧

困にあえぐ人々や戦争犠牲者などの弱者と言われる悲惨な人々の存在しない平和で持続的な世界が実現出来るのである。 それは

けっして難しい事では無くほんの少しの関心とそして意識を変える事で可能なのである。』
 
最後に、人にとっての本当の幸福とは一体どの様な事を指すのかとの問いが出てくる。 自分?家族?親兄弟?親戚?近しい知人

?せいぜいこの範囲が幸、不幸に関しての感覚範囲であろうかと思う。しかし先の様な関係が無いとしても、もし隣で苦しみにあえい

でいる人間を目の当たりにしたなら本人は幸福な気持ちでいられるだろうか?
 
もう我々は遠い所で起きている事と言って、見えない振りを続けるのは不可能な時期に来たのである。
さすがにこの様な写真を見ると言葉が出なくなる。